猫がいる幸せ

我が家には猫が5匹います。
現在は預かりの子を含めて6匹。
賑やかで楽しく大変で楽しい、猫たちのおかげで毎日張りのある生活です。

子供の頃から家に猫がいることが常であり、それが当たり前でした。

一番最初に「ウチの子」になったのは、キジトラくん。

キジトラ猫
叔母の家で飼われていた彼は、叔母の妊娠を機に、祖父母の家へとやってきました。
私が小学校低学年の頃です。

人との距離をはかることが苦手な私は、どんなに頑張っても上手く周りに合わせることが出来ない子でした。
いつも、いつの間にか周囲から浮いてしまう。
何がいけないのか、どうすればいいのか、自分に足りないもの余計なものは何なのか。考えて考えて、それでも答えは出ない。

そんな私にとって、学校は苦行の場でした。
授業中は誰とも話さずに済むのでいくらかマシ。休み時間は図書室に籠り、放課後はさっさと家に帰る。
週休二日でない昭和の小学生は、月曜日から土曜日の昼までひたすら苦行に耐えるのです。

そして待ちに待った土曜日。

国鉄(JR)のバスに揺られて隣県の祖父母宅へ向かいます。
昭和のバスは喫煙できたため、バスの中はいつも冷えた煙草の匂いがして、国道とは名ばかりの曲がりくねった道をグネグネ走るバスの揺れと相まって、よく車酔いしました。

バスを降りて山道を20分ほど歩くと、オレンジ色の温かな明かりが見えてきます。

「ただいまぁ!」
玄関を開けると、ふんわりと出汁と醤油の良い匂いがし
「よーきた、よーきた(よく来た)」
満面の笑みの曾祖母と祖父母が迎えてくれる。

その瞬間、体と心の緊張が解けていきます。

夕ご飯を食べてお風呂に入り、家では観られないテレビ番組を観て笑い、祖母が干しておいてくれたフカフカの布団に包まると、キジトラくんがスルリと布団に潜り込んでくる。
日中たくさんの陽を浴びたであろう彼の、日向の匂いがする背中に顔を埋めると、平日に溜まった心の澱が溶けていくような、優しく穏やかな気持ちになったものです。

週末にはキジトラくんに会える。それが平日を生き延びる力をくれました。

彼は、穏やかで度量の大きい優しい猫でした。
そして、山の中の一軒家に住まう肉食獣として、とても優秀なハンターでした。
朝一番の三和土には、必ずと言っていいほど彼が仕留めた獲物が置かれ
「よーした、よーした(よくやった)」
褒める祖母に向かって得意げに目を細める姿は頼もしく、とても美しかったのを覚えています。

キジトラくんがいなくなったのは私が中学に上がった年でした。

「猫は死期を察すると身を隠すっちゅーでのぅ」
曾祖母が沈んだ声で言った言葉が辛くて悲しくて納得いかなくて…泣きながら家の周り、近くの山、田んぼ、彼の名を呼びながら探し回りました。
土曜日の夜。日曜日の朝。日曜日の昼。日曜日の夜。

また平日がやってくるのに、キジトラくんの背中は、もうありません。

命と過ごすということは、命を見送るということでもあります。

キジトラくんのあともたくさんの命と過ごし、たくさんの命を見送りました。

どんなに鮮烈で強烈な体験も、時が過ぎれば曖昧になってしまう。
時間薬と言われるそれは、生きていくのに必要だけれど、大切な思い出や記憶が少しずつ薄れていくのは寂しいことです。

忘れたくない、愛おしい「ウチの子」たちの記録を、これからもこの場所に綴っていけたらと思います。

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